小平の歴史(明治時代 御門訴事件)

できごと 小平市周辺のようす
1868
(明治元)
9 8 明治に改元 品川県 明治に改元した翌年、小平始まって以来の大事件が起こります。新政府になって品川県より「社倉御取立」が達せられたのです。社倉とは、飢饉などの際の窮民救済のために設けられた穀物倉庫のことです。武蔵野新田では、川崎平右衛門が作った「養料金」制度があって管理は村、配当も村で分けていました。また、それも裕福な農民が雑穀を納めるだけで良かったのです。また一帯は、生産性の上がらない土地のため幕府からは年貢も減免されていました。それが県の預かりになって、それも品川県の場合は、米1斗1円の割合で金納、そして土地の無い人からもそれなりに3升分、2升分、1升分と金納せよと言うのです。いくら自分たちのための備蓄だと言っても納得がいかなかったことでしょう。また、前年には大風雨で洪水が起こっていますから畑も荒れていて、今が飢饉なのですからこれからの飢饉のための積立どころではなかったのでしょう。

 そこで武蔵野13ヶ新田(大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・鈴木新田(小平市)、関前新田(武蔵野市)、田無村、上保谷新田(西東京市)、関野新田・梶野新田(小金井市)、柳窪新田(東久留米市)、戸倉新田・内藤新田・野中新田六左衛門新田(国分寺市))は免除の嘆願書を県に提出します。一回目は明治2年11月に、12月には田無村が脱落して12ヶ新田となりますが、12月22日に再度提出します。すると役所は社倉を納めるようにと、野中新田名主定右衛門ら名主を呼びだしますが、首を立てに振らないため軟禁されてしまいます。
 ここで農民7〜800人が決起して東京府まで門訴に向かいます。ところが、県はこの噂を聞き淀橋(新宿区西新宿)辺りで軍隊を出して待ち伏せをします。そこで大半は差し止められるのですが、小石川方面から迂回した人たちが日本橋浜町の品川県庁に達します。その農民を県は、馬・刀・鉄砲で追い払います。農民も抵抗して、50人余りが逮捕されます。県側にも怪我人が出たことで、村に帰った農民も合わせて51人が捕らえました。
 新政府も財政難で役人達の給料の中から割り当てで救荒積立金を出したり、年末には全官庁職員の給料をカットしたりしていたので、一般の農民よりも名主には拷問による厳しい取調べが行われて、首謀者とされた野中新田名主定右衛門など8名が亡くなりました。名主にとっては百姓との板ばさみでとても痛ましい出来事でした。
 こうして御門訴事件は終結したのですが、同年6月に改めて出された「社倉御取立」では、特に貧しい農民は免除され量も減免されたとのことです。また後に、この時積立られた返還金で慰霊碑を建てたり、小学校建設費に当てたりしたそうです。
1869
(明治2)
2 9 大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・鈴木新田が品川県に編入
  小川村名主弥次郎と百姓佐五右衛門が製茶会所取建願を東京府に提出
11   品川県より社倉御取立布達
12 18 社倉積立一件田無村脱落
22 再度社倉積立御免嘆願書提出
24 野中新田名主定右衛門ら名主が御役所へ呼び出される
29 農民門訴に向かうが中止
1870
(明治3)
1 9 農民7〜800人門訴に向かう
10 門訴決行
19 野中新田名主定右衛門ら入牢
4   玉川上水に通船
1871
(明治4)
2 11 上保谷新田百姓甚平出牢後まもなく死亡
13 野中新田名主定右衛門牢死
上保谷新田百姓国五郎牢死
12 23 岩倉使節団欧米視察に出発